カピトリーノの丘

現代のガイドブックを読む人には「カンピドーリオ」と言った方が分かりやすい場所。
七つの丘のうち防衛に最も適した場所。
最も高く、三方が切り立った崖、残る一方はテヴェレ河。

しかしながら、もっとも狭く、首都機能を配置するには不適当。
そこで、ユピテル(ゼウス)神殿と妻のユノー(ヘラ)神殿を配置しました。

現代は、カピトリーノ美術館とコンセルヴァトーリ美術館、広場となっています。
市庁舎は半分崖になっているので当時はもっと狭かったと思います。

この丘に立つと、どうしても「ケルト・ショック」と呼ばれる一連の事件を思い出す。
紀元前390年の出来事だ。ローマはウェイを攻略し有頂天の頃。
ウェイは当時対立していたエトルリアの主要都市。当時のローマに比べたら大都会である。
貴族と対立していた平民が、「自分たちの都にしよう」とローマを捨てようとしていた。

そこに急遽、ケルト人(ガリア人)が侵攻してきたのだ。
まあ、実は当時勢いが強かったケルト人をエトルリア人が何とか防いでいたのだが、
そのエトルリアのウェイを陥落させることにより、直接攻撃を受けるようになったのだ。
大挙として押し寄せるケルト人に立ち向かおうにも、ローマ軍団の主力の平民は
ウェイに移動してしまった。

もうされるがままである。
略奪の限りを尽くし、全てを破壊されたローマ。人々はこのカピトリーノの丘にたてこもる
事にしました。
しかしながら、その狭さ故に「若者と壮年期の男、その妻女のみ」だけが籠城できた。
元老院議員とはいえ、年長の者は全て殺されたのです。

ケルト人は破壊し略奪する事だけ目的なので、ローマの占領には興味がない。
だから一通り満足した時、講和(もはや和平ともいえない)が結ばれました。
ケルト人には「金塊300キロ」を渡して引き上げてもらったのです。

残るは廃墟となったローマ。
本当に廃墟になったのです。

周辺にあってローマと同盟を結んでいた都市もことごとく裏切り、攻めてきます。

この時を振り返ると、ほんと、いつ滅んでもおかしくないと思います。

そのどうしようもない状態から、20年かけて立ち上がります。
立ち上がるといってもそれは防衛上の問題。そこから政治上の問題である貴族と平民の対立解消や同盟国との関係強化など、問題は山積み。

そして、蓋を開けてみたらケルトショック以前より格段に強い国家が誕生し、
イタリアを統一したのです。

ローマの強さは、敗戦を徹底的に分析し、問題をきちんと解決していく所です。

どこぞの、問題が有れば先送りする国家とは大違いですね。

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