タイトルを見て、「?」と思う人も多いと思います。
イタリア通の人はすぐに「国道3号線」だ、と分かるかも知れません。
観光客には「コルソ通り」として説明する方が早いと思います。
コルソ通りはポポロ広場からヴェネツィア広場までまっすぐに伸びる道。
かつては競馬も行われたようです。
フラミニア街道は・・・あれ? ウィキペディアのを引用しようとしたけど、項目がないので、書いてみます。
現在の国道3号線で、ローマからリミニまで続く総延長315kmの街道。
名前の通り、フラミニウスが造った道です。その後アウグストゥスが改修。
ま、それだけ聞いたら「は? 誰だよ、それ」って思うのでちょいと補足。
フラミニウス(ガイウス・フラミニウス)は、平民出身の人。
性格は強気で大胆。紀元前232年、護民官に選出。翌年、元老院入り。
前227年シチリア総督。前223年執政官に選出。
そして、前220年には財務官(ケンソル)に選出され、この街道を敷設(ふせつ)。
貧富の差をなくそうと国有地借地の上限を125ヘクタールと定めたり(グラックス兄弟の1世紀前!)、
元老院議員およびその子孫が海外貿易するのを禁止する法律を成立させたりした平民階級の希望の星。
前217年、二度目の執政官に選出。
とまあ、こんな感じ。なんでこんな事を書くのかというと、他でも有名な人だからです。
それは・・・・世界史マニアならば知っているかな?
「トランジメーノの会戦」のローマ側の執政官(最高司令官の一人)であった人なのです。
おいおい、トランジメーノの会戦もwikiにないのか・・・。
第二次ポエニ戦争。カルタゴの名将ハンニバルがアルプスを越え、ローマにむけて進軍。
ティチーノ、トレッビアの会戦で敗れたローマがハンニバルに臨んだ第三戦。
送り込まれたのが貴族出身の執政官のセルヴィリウスとこのフラミニウス。
ボローニャを出発したハンニバルがどのルートから来るか分からなかったので、
セルヴィリウスはリミニに、フラミニウスはアレッツィオへ。
リミニのルートはフラミニア街道を通る平坦なルート。
もう一つはアペニン山脈を越え、フィレンツェを通る山岳ルート。
ハンニバルの目的は、ローマ連合の切り崩しにあったのでフィレンツェを略奪しながら、
南下するというルートを選択。
フラミニウスは途中からハンニバルの後を追い、フラミニア街道にてセルヴィリウスと共に、挟撃する作戦に出ました。
トランジメーノ湖の画像・・・・・・どっかにないかな?
あ! あった! 申し訳ございません。
フラミニウスもトランジメーノの会戦のwikiもありました・・・。
そっちの方が読みやすいと思うので、リンクしときます。
(会戦の様子も画像があるので見てみて下さい)
無いわけ無いと思ってたんですけど・・・。読み方の問題ですか。
結果的には、トランジメーノの会戦でフラミニウスは包囲殲滅され戦死してしまいます。
その後、セルヴィリウスも各個撃破される。
僕はこの戦いを見た(読んだ)時、戦慄を覚えました。
どうしてもハンニバルの天才的な行動に目が奪われがちですが、フラミニウスも決して
ただのバカじゃない。そりゃ、さぞかし間抜けな執政官として映るかも知れませんが、
彼の政治的功績は大きく、グラックス兄弟が跡を継いだ事もあり歴史に名を残している。
なんというか腐っても「ローマの執政官」である。
他の時代に生きたらもっと活躍できただろうに。
敗戦を知ったローマ市内は騒然としたでしょうね。
何しろ、位置的にはフラミニア街道を使ったらたったの三日の距離。
(戦死した執政官の名前の街道を使ったら・・・というのが気の毒だ)
だが、ハンニバルには別の場所へ移動する・・・別にフラミニウスに配慮したわけではなく、単に戦略的に重要な別の事(目的はローマ連合の解体)をしただけなのですが。
この戦いの後、ローマ軍はカンネーの戦い(センター試験レベル)で大敗します。
今でもローマでは泣きやまない赤ん坊に「戸口にハンニバルが来ているよ」といいます。
まあ、子供に対する脅し文句ですね。
応用として「危機が迫っている状態の時」にもいうみたいです。
「Hannibal ad portas」と表記するようです。
・・・申し訳ありません。
長くなりすぎました。次からは全て引用しようと思いますので。
ということで、コルソ通りを歩いていたら思い出したことを書いてみました。

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